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さすらいのハル、異論反論日記

ドラマや映画、漫画やニュースに言いたい放題言わせて頂きます。

英語教育の進歩が、英語嫌いを増やすとしたら?

     定期テストが終わって、結果が出る時期になりました。私の働く塾で起こった出来事です。生徒が定期テストの英語科で悪い点を取って来て、私の教え方が間違っていたと責めました。それは少し当たっていました。教科書の本文中心に教えた(といっても二回だけしか教えるチャンスがなかった)のが裏目に出たのです。八年前までやっていた教員時代、普通定期テストは本文から出題されるという教員間のテスト作成のルールがあったから教科書中心の教え方をした訳ですが、見事に一問も教科書から出題されなかった。そのほかにも理不尽な採点方法があり、私は怒りが久しぶりに爆発しました。
     あくまで私の信念で個人の意見ですが、英語という教科の良いところは、知能が正常範囲内ならば13歳からスタートして(小学生のとき劣等生でも) 頑張れば努力が必ず報われることなんです。教科書から出題しないということは、学校で真面目に教科書を読んで授業を受けている平均的家庭の生徒を見限って、英会話学校などで幼少時からお金をかけた生徒が優遇されることと同義なのではないか。
私が英語を教えている理由は「世の中は不条理だけど努力が報われる世界もほんの少しはある」ことを伝えたいという気持ちがあるからです。自分も良い先生方にそう教わってきたから。自分が学校に勤めて試験を出す側だったときは貰った権力の全てを使って、努力した人が頑張ったぶんだけ報われる試験を作りました。
    社会では人間は時に裏切ることもある。世の中は容姿とか要領の良さしか見てくれないことも多い。もちろんそれらを現実として受け止めるしかないけれど、どんな見た目が不細工でも性格が不器用でも運動が苦手でもテストの点だけは頑張る人間を裏切らない、と考えるのは古いですか?この考え方が間違ってることは知ってます。そもそも暗記などの知的能力だって個人差があり恵まれている人とそうでない人がいることも分かっている。でも努力が報われることを一瞬でも思春期だけでも真実にするのが私の仕事なんです。50点の人が頑張ったら65点取れるようにしてあげたっていいじゃないですか。

   実はその怒りの対象となった中学の問題は英語の専門家として見れば良い問題でした。

具体的に言うと「好きな季節は何ですか。その理由は?」という問題が出題されました。質問自体はコミュニケーションツールとして悪くない。でも、秋が好きで紅葉のことを書きたい中学二年生はどうすればいいだろう?紅葉turning of the leaves は二年生では習いません。私は生徒に「嘘でも良いから理由の答えが書ける文章を作れるか判断してから好きな季節を決めなさい。」と指示しました。例えば冬が好きなことにする。理由は「スキーできるから。雪が好きだから。」なら満点の答えが書ける。ちなみに私はスキーが大嫌いだけど、それが私の模範回答です。夏でも「プールで泳ぐ事ができます。海が好きです。」なら小学校低学年レベルの馬鹿っぽい作文だけど満点。私に抗議した生徒は冬なら雪合戦が好きだそうです。でも雪合戦「snow ball fight」を中2の英語では表現できない。だから、嘘でもスキーと書いておくしかない。春が好きな人は中学二年生のレベルでは「お花見」「桜」「だんだん暖かくなる」といった表現ができません。コミュニケーションと名のつくものは全部そんな調子なので、感受性豊かで真面目で言いたい意見があればあるほど英語で表現できないもどかしさに苦しむことになる。

     最近の英語教育とその目標に言えることですが「相手を喜ばせるような正解を、見え透いた嘘でも何でも良いから、文法的な要点は押さえつつ適当にペラペラ言えれば、または書ければ点が取れる教科」に成り下がりつつあるように思えるのです。もちろん本当に言いたい事を表現したい優秀な生徒はボキャブラリーを増やすために辞書を引いたり、先生に質問したり、ラジオ講座を聴いたり、自分なりの方法で能力を高めるのでしょう。私自身はテストの点数のためなら平気で嘘をつく狡い人間です。でも真面目で口下手な人、嘘つきじゃ無い人はせっかく英語の知識があっても、英語以前の問題でつまづくかもしれないし、英語学習が途上ならば中途半端な文しか作れない。結果点数を落とすことになります。「コミュニケーション英語」(高校の教科名)という名前の教科なら仕方ありません。でも中学の普段の学習成果を測る指標である中間テスト期末テストでは英文法と教科書本文を出題するように研修現場で叩き込まれているのではなかったか。最近は考え方が変わったのかもしれませんし、学習指導要領をちゃんと読まない私も悪いです。でも教科書引用抜きの問題を出すならば、成績が良くなかった生徒を救済する措置をすべきではないでしょうか。何しろ、通知表の結果は内申書に載り、入学試験の結果を左右するのだから。器用な嘘つきがコミュニケーション上手で、そうじゃない人をコミュ障と呼ぶのだとしたら、世の中って何なんでしょうね。

    しかも、二十年前は単に構文や単語をたくさん覚えているかなど、努力を測る道具でもあった英語という教科が、そこから努力の要素を削り取られるのだとしたら、教科としての英語の存在意義がますます危うくなる気がするのです。私は英会話が好きですが、嫌いな人だって英語とは受験までお付き合いして行かなければならない。もちろん語彙と文法はないがしろにされはしないでしょう。しかし英語にそれほど興味関心を持たない生徒にとって、努力が報われないテストのせいで彼らがますます英語嫌いになって欲しくないと願うばかりです。